ドストエフスキーの一生と歴史

フョードル・ドストエフスキーは世界史の教科書にも載っている、有名なロシアの小説家です。僕もドストエフスキーの作品を何冊か読んだことがあります。
今日はドストエフスキーの一生を、関係のある歴史上の出来事とからめて書いていきます。
間違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。

ドストエフスキーが生きた時代

ドストエフスキーは1821年に生まれ、1881年に亡くなっています。60才くらいまで生きたことになります。
この時代、ロシアでは社会主義の考え方が広まっていたそうです。しかし、実際にロシアで社会主義革命が起こるのはドストエフスキーが亡くなってから、40年ほど後のことになります。
さらに、この頃の日本の歴史を考えてみます。日本で明治時代が始まるのは、ドストエフスキーが47才くらいのときです。それまで、まだ日本は江戸時代でした。また、日本とロシアが戦争をするのは、ドストエフスキーの亡くなった後、25年ほどたってからのことになります。

作家デビュー

ドストエフスキーは25才の時、『貧しき人々』という小説を出版します。これが非常に評判がよくすばらしいデビューとなりました。しかし、その後に続けて出版した作品については、あまりにもひどいと酷評されました。

シベリア送り

28才くらいの頃、逮捕されてシベリア送りになってしまいます。逮捕の理由は空想的社会主義サークルへの参加でした。33才くらいまでシベリアで過ごすことになります。
実は逮捕直後の判決は、シベリア送りではなく死刑判決でした。しかし、死刑執行の直前に皇帝の恩赦が出され、代わりにシベリアに送られることになりました。
皇帝にしてみれば「死刑!!・・・うそぴょーん。言ってみただけ♪」という感覚なのかもしれません。しかし、ドストエフスキー本人には大きな影響があったようです。
この件の影響によりドストエフスキーの考え方は変わっていきました。人や社会を科学的・論理的にとらえる社会主義的な考え方から、キリスト教(ロシア正教)の人道的な考え方に変わっていったそうです。

死ぬまでにいくつか名著を書く

45才の頃、『罪と罰』、52才の頃『悪霊』を書きました。
そして、60才で亡くなる少し前に『カラマーゾフの兄弟』を書きました。

農奴解放令

ドストエフスキーの作品で農奴解放令という言葉がよく出てきます。農奴解放令が行われたのは、ドストエフスキーが40才の頃です。これは『罪と罰』が出版されるより前のことです。
この時期に農奴解放令が出されたのには理由があります。農奴解放令が出されるちょっと前、ロシアはクリミア戦争をしていました。ドストエフスキーが35才くらい頃です。ロシア VS イギリス・フランス・サルデーニャ(のちのイタリア)・オスマンの戦いでした。
このクリミア戦争ではロシアは大兵力を動員していたにも関わらず、善戦できませんでした。というのも、産業革命を経験したイギリスやフランスに比べ、ロシアは武器や艦船の性能、物資の運搬方法など全てにおいて遅れていました。
その結果として、ロシア政府も「これはやばい」と思い、「農奴解放令」を行うことで近代化へ向かおうとしました。

シベリア鉄道

ドストエフスキーのシベリア送りではシベリア鉄道は使われていません。なぜならば、ドストエフスキーの生きている間、シベリア鉄道は影も形もなかったからです。
ドストエフスキーの生きている頃にも、民間からの鉄道計画の提案がいくつかあったそうです。しかし、ロシア政府はこれを無視続けていました。
ドストエフスキーの死後10年くらいたったころ、ようやくシベリア鉄道の建設がはじまりました。さらに、シベリア鉄道の全線が完成するのは死後40年くらいたったころです。つまり、日本とロシアの戦争の真っ最中に完成しました。
そのため、このときのロシアとしては、日本と戦うための優秀な補給路を手に入れたことになります。日本の陸軍にとっては困ったことになったわけですが、またこれは別の話です。

おわりに

ドストエフスキー」を中心に歴史を調べていて気づいたことがあります。それは、歴史の出来事を考えるときに、特定の人の年齢を基準して考えると覚えやすいということです。自分や周囲の人の年齢と比較して考えると、実感が湧いたり、驚いたりできます。
たとえば、自分の年齢くらいのときにシベリア送りにされたのかぁとか。30代半ばで戦争が起きてたんだなぁとか。その上で自分がそういう状況だったらどう思うだろうとか考えられます。
これは楽しいですし、勉強にもなります。